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携帯市場・粟津が中古携帯の売買を始めた理由

2000年代の半ば以降“ガラパゴス化”という言葉がよく使われるようになった。日本で生まれたこのビジネス用語は、日本市場で独自の進化を遂げた工業製品を形容する際に使われる。1990年代末年ごろから急速に普及した携帯電話機は、この“ガラパゴス化”した分野の代表だ。普及の初期から最先端の独自国産技術を多用。性能や機能は世界でもトップレベルを維持し続けた。日本人にとっての使いやすさや必要な機能を付加しながら発展、ガラパゴス化した携帯電話機、いわゆる“ガラケー”は、世界標準とされるスマートフォンが普及した今でも根強い人気がある。その理由は機能と使いやすさではないだろうか。

そんなガラケーを日本文化と位置づけ、利用者の受け皿になろうと中古携帯電話機の買い取り・販売会社「携帯市場」が孤軍奮闘している。ガラケーの製造が収束する中で、端末の仕入先は変化を続けている。しかし、今でも3000万台もが稼働しており、利用者の信頼は厚い。

携帯市場 神田本店 外観

2017年、神田にガラケー専門店をオープン。スマホ高騰、スマホ疲れの背景からも、ガラケー戦略が一定の層に評価されている

「これはもはや文化ではないか。この文化を守っていきたい」

創業者で代表取締役CEO(最高経営責任者)の粟津浜一さん。会社設立から満10年が過ぎた。ガラケーの利用者は、20~30代の2台目需要とともにシニア層が中心。特にシニアは、スマートフォンへの移行に強い抵抗を示すケースが多い。これは機能や操作を新たに覚えることへの抵抗でもあり、そうしたユーザーの“まだまだガラケーを使いたい”という願いも引き受ける。2018年にはミッションとして「ひとりひとりの携帯生活に新たな彩を」を掲げた。今後も流通する中古ガラケーの品質に留意するとともに、「モノのインターネットといわれるIoTやハブなどとしての活用など、用途も模索したい」という。そんな粟津さんだが、創業の経緯は意外にもITや携帯通信とは関係ない。

携帯市場 イメージ

粟津は「わが社は今後第二創業期を迎える。これからは全員ドラッカーを学び、顧客の創造を追求する」と意気込む。

「実家のある岐阜羽島は織物産業の集積地で、実家も毛織関連の事業をしていました」

日本の産業は、明治の殖産興業の時代も戦後の復興期も繊維業に支えられた面がある。粟津さん実家もこうした流れに乗り大きく繁栄した。しかし、時代は変わる。オイルショック後は産業構造が電子産業などにシフトしていった。「かつては多くの従業員を抱えていた家業も今では数人の状態。会社経営は怖いものだ、という意識を強く持った」という。それでもやがて起業の道を歩むことになった。ただしこれは、当初思い描いた結果ではなかったという。

20歳のヒューストン留学、NASAに入るために直談判しにジョンソンスペースセンターへ。一度決めたら突き進む姿は、今の業界を変えたいと思う姿と重なる

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子供のころは歴史や生物、宇宙に興味があった。なかでも宇宙にはこだわりがあり、次第に航空宇宙関連の仕事を自分の将来と結び付けて考えるようになった。大学もそれにつながる分野に進学した。最もなりたかったのは宇宙飛行士。ただ、自分が怖がりだと理解していたこともあり、エンジニアを志向する。筑波大学の大学院に進むと、宇宙航空研究開発機構(JAXA)にも出入りしながら研究する機会を得た。

修了後はJAXAや航空宇宙関連企業に進みたかった。が、無情にも縁に恵まれない。最終的に就職したのは電子機器メーカーの研究開発部門。ここで仕事をするうちに、自分の本質を少しずつ知ることになっていく。

「積み上げるように一つの技術を研究するのではなく、アイデアをもとにニーズを知り市場を開拓していくような仕事のほうが向いているのではないか」

さらに学歴などによる壁も立ちはだかる。公務員になろうかとも考えたが、そう簡単にはうまくいかない。

その時になぜ自分は宇宙を目指したのかを自問自答した。「フロンティアだからだ。誰もやっていないことをやりたいんだ」と気づいた。
「自分の強みを生かして、誰もやったことがないことをやりたい。将来は宇宙ビジネスをやりたい。」

「このままでは自己実現欲求が満たせない」

入社3年目。会社を飛び出し、家業で感じた恐怖心をおして起業の道に進むことになった。自己実現する方法はそれしかない、と考えた。

起業して初めて店舗を構えた場所が小伝馬町。ビル3階に事務所を兼務してスタート。当初はアワーズと名乗った。「〇は地球をイメージ。Aは粟津が地球を飛び出すという意味」、起業後も当時の思いのままだ。

起業して初めて店舗を構えた場所が小伝馬町。ビル3階に事務所を兼務してスタート。当初はアワーズと名乗った。「〇は地球をイメージ。Aは粟津が地球を飛び出すという意味」、起業後も当時の思いのままだ。

かくして起業は決まった。すると今度は新たな課題が浮上する。一貫して研究畑を歩んできたこともあり、ビジネスの知識がないのだ。起業セミナーなどに参加するが、一足飛びに十分な知識やノウハウが得られるものではない。ただ、この過程で起業のパートナーは見つかった。お互いに資金と事業のアイデアを出し合った。外車のレンタル、ブランド品のリサイクル、旅行会社…

さまざまな候補を検討したという。ただし条件があった。絶対にゆずらない条件。それは①初期投資が少ない②成長分野であること③トップに立てること―とした。さらにオリジナリティーがあるかなども考慮し“中古携帯電話の売買”に決めた。おりしも、米アップルコンピュータが「iPhone」を市場投入した翌年、2008年のことだった。

携帯市場本社には、創業当初から集めた懐かしいPHS、ポケベル、ガラケー、初期のiPhoneなどを100種類ぐらい保存されている

携帯市場本社には、創業当初から集めた懐かしいPHS、ポケベル、ガラケー、初期のiPhoneなどを100種類ぐらい保存されている

「ビジネスや経営のことに加え、携帯電話機のことについてもノウハウがありませんでした。しかし、差別化を進めなければいけないということは強く意識していました」

当時は携帯電話機を不要となった個人から買い取り、必要としている個人に届けるというモデルを想定。リサイクルショップなどにも協業を働き掛けていった。この時に腐心したのが“誰もが簡単に買い取れる”ようにすること。品質や機能、価格などの面で多様な機器を売買するのは難しい。リサイクルショップもその点がネックとなり、なかなか手を出しにくいムードがあったのだ。

この課題を丁寧に解決していったことが、携帯市場の今を築くベースとなった。ここが最大の差別化につながるとともに、売買の舞台や売買先が広がる中でも変わらず同社の根底を支えるコアの部分にもなっている。

創業10年を経て、その使命を全うしようとさらなる業容の拡大を目指す。2017年には、業界団体「リユースモバイル・ジャパン」を立ち上げ会長にも就任した。

「顧客や市場、社会、地域の役に立ちたい」

粟津さんの挑戦は続く。現代人の生活の中核を担う携帯電話機とともに。

携帯市場代表・粟津浜一